シリーズ くらしと憲法③
2017年6月7日
日本国憲法に命を吹き込むのは、私たち市民の力
弁護士 杉 島 幸 生
(関西合同法律事務所)
春は新入学の季節。少し緊張した面持ちで通学する新一年生を見ると心が和みます。6歳の春になれば小学校入学。当たり前のことですが、なかなかすごい事です。だってどんな山奥や離島の子どもにも学校が用意され、先生がつき、教育が実施されるんですから。経済効率を考えたらとてもできません。日本国憲法が、教育を受ける権利と無償での義務教育の実施を定めているからのことです。やっぱり憲法と私たちの生活は密接に結びついています。でも、私たちにとっては当たり前の小学校入学ですが、重い障害をもつ子どもにとってはつい最近まで当たり前ではありませんでした。「就学免除」の名のもとに義務教育を受ける権利を奪われていたのです。当時の政府は、日本国憲法26条の「その能力に応じて」という部分を「教育を受ける能力のある子どもには」と解釈し、重い障害をもつ子どもは能力がないのだから義務教育は必要ないと考えていたのです。社会もそれを受け容れていました。でも行政が、能力がないのだから教育は必要ないと決めつけるなんてとっても残酷なことです。そこで多くの保護者や教師たちが障害児教育の完全実施を求める運動を起こしました。ものを言えない子どもたちのために立ち上がったのです。長い長い取り組みの中で、ようやく養護学校の設置が義務づけられました。1979年のことです。こうした運動の中で
26条の「能力に応じて」は、「その子のもつ能力にふさわしい教育を与えること」と読み替えられていったのです。確かに日本国憲法にはすばらしいことが書いてあります。しかし、それに命を吹き込むのは、私たち市民の力です。油断をしていると、また別の読み方をされることになるでしょう。現に「能力に応じて」を、「エリートにはエリート教育を、そうでない子にはそれなりの教育を」と読み替えようとする勢力も生まれています。私たち市民の力がためされています。
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。