福島医療生協創立六〇年を振り返って

2020年1月22日

2020年4月福島医療生協は創立60年を迎えます。そこで今号より60年のあゆみを長年医療生協に関わった高本東行さんに執筆してもらい、シリーズで紹介していきます。

福島区で一九五四年(昭和二十九年)頃、民主的な診療所づくりに取り組んでこられた吉野の羽原正一さん、玉森光雄さん、目崎晴央さん、野田では三本松三郎さん、人見泰男さん、そして商工会の塩田吾一さん等多くの人達が鬼籍に入ってしまわれました。しかし幸いにも吉野診療所開設35年の記念誌と野田診療所開設25年、30年のあゆみ誌が残され、当時のことを知ることができます。あゆみの発刊当時を思い出して書いてみることにします。
戦後、町には失業者や、親を失くした浮浪者があふれ、生活はすさまじいものでした。さらに朝鮮戦争後の不景気で中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が増え、その日のご飯を食べるのがやっとの時代でした。
当時、健康保険は官公庁や大企業に働く人以外にはなく、区民の多くは「現金」が手元になければ医者にかかれませんでした。
そんな中で「病気になっても安心して診てもらえる診療所をつくろう」と区内の民主団体や住民が集まって吉野には「福島実費診療所建設委員会」野田には「野田健康を守る会」が結成され建設運動がそれぞれで取り組まれることになりました。
当時の記録を見ると吉野では十二万一千六百円の出資金と自転車や扇風機から電気工事や樋工事一式等まで多くの人からの寄付が寄せられて一九五五年八月十日に吉野診療所が開設されました。一方、野田では一七六人の方から一九万三千六百円の募金が寄せられ、野田対込町の出本岸代さんの下宿屋の十四畳の部屋を借りて一九五六年二月一日に診療を始めたそうです。
大変な苦労をしてやっと診療所を開設したもののそれを維持していくのも至難のことでした。常にお金が足りず職員の給料や仕入れた薬代が払えないため金策に追われる。あまりの安い賃金と不安で医師や職員が辞めていく。野田では新しく来た医師に診療所を乗っ取られかけたり、吉野でも4年間で5人の医師が変わるなど苦労に追われる日々が続きました。しかし、先輩方はどんなに苦しくてもへこたれず、楽天的に地域の人達と力を合わせて診療所を発展させていきました。

次号へ続く